「上野で、少し落ち着いて美味しい蕎麦を手繰りたい」 そう思ったある平日の昼下がり、ふと脳裏に浮かんだのが、かねてよりその名を聞いていた「上野藪そば」でした。JR上野駅や京成上野駅の喧騒から程よく離れた場所に佇むこの店は、界隈でも名高い老舗として知られています。これまで何度かその趣ある店の前を通り過ぎたことはありましたが、暖簾をくぐるのはこれが初めての経験でした。
平日の午後1時過ぎ、幸いにも昼のピークを過ぎていたためか、待つことなくスムーズに入店できました。一歩足を踏み入れると、そこには温もりを感じる木材を基調とした、凛とした空気が流れる空間が広がっています。決して広々とした店内ではありませんが、隣の席との間には心地よい距離感が保たれており、一人で訪れても周囲を気にせず、自分の時間を過ごせる居心地の良さがありました。
席に案内され、品書きに目を落とします。「せいろ」「もり」「鴨せいろ」「天せいろ」……。どれも潔いほどシンプルでありながら、老舗ならではの確かな品格が漂います。しばし悩んだ末に注文したのは、基本の「せいろ」。そして、壁に貼られた品書きで見つけた「十四代」の文字に心惹かれ、冷酒でいただくことにしました。昼間から銘酒を味わう。そんなささやかな背徳感も、歴史ある蕎麦屋の懐の深さなら許容してくれるような、そんな気がしたのです。
ほどなくして、まず涼やかな佇まいの「十四代」が、続いてお待ちかねの「せいろ」が運ばれてきました。細く、やや短めに切り揃えられた蕎麦は、エッジが立ちすぎることなく、それでいて一本一本が存在感を放ち、ふわりと穀物の香りを漂わせています。つゆは、これぞ藪そばといった風情の、キリリと引き締まった辛口。最初のひと手繰りは、蕎麦の先端にほんの少しだけつゆをつけ、一気にすするのが作法であり、また最も香りを楽しめる瞬間です。
蕎麦そのものの豊かな風味と、つるりとした喉越しの心地よさ。それらを力強く受け止め、さらに引き立てるつゆの鮮やかなコントラスト。そして、そのすべての調和を、まるで名脇役のように静かに支えてくれる「十四代」の、清らかで優しい余韻。一杯の蕎麦と一献の酒が、これほどまでに穏やかで満ち足りた時間を与えてくれるものかと、改めて気づかされ、軽く驚きを覚えるほどでした。
客層は、落ち着いた年配の方が中心のようです。誰もが大声で語り合うこともなく、それぞれのペースで静かに蕎麦をすすり、味わっています。ガヤガヤとした喧騒とは無縁の、ただ蕎麦と真摯に向き合う時間。それはまるで、美術館で一点の名画を鑑賞しているかのような、あるいは静寂の中で一服の茶を点てるような、そんな研ぎ澄まされた空気が流れていました。ここでは、蕎麦そのものが紛れもない“主役”として、大切に扱われているのです。
まとめ
「上野藪そば」は、単に蕎麦の味を堪能するだけでなく、その店の歴史が醸し出す“空気”そのものを味わいに行くような、そんな特別な蕎麦屋でした。
目まぐるしく過ぎていく日常の中で、たとえほんの短いひとときであっても、心静かに、自分と向き合える「余白」のある食事ができる場所というのは、本当に貴重な存在です。 蕎麦をじっくりと味わいながら、そこに流れる時間をも味わう。 そんな、ささやかでありながらもこの上なく贅沢な時間が許される昼下がりが、ここ「上野藪そば」には確かにありました。
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