神田駅からほど近い、オフィス街の一角に「神田まつや」は静かに、しかし確かな存在感を放って佇んでいる。創業は明治17年(1884年)。東京に数多ある蕎麦屋の中でも、特に長い歴史を刻み、いわゆる“江戸前の粋”を今に色濃く伝える名店だ。きらびやかな観光スポットというよりも、長年地元の人々に深く愛され、日々の暮らしに溶け込んでいる――そんな温かい印象を強く受ける。
週末の昼下がり、ふと思い立ってその暖簾をくぐってみることにした。時刻は11時半。開店して間もないはずだが、店の前にはすでに数人の客が列を作っていた。とはいえ、老舗ならではの手際の良さか、回転は思いのほか早く、10分ほどで気持ちよく店内に案内された。
一歩足を踏み入れると、そこは年季の入った木造建築が醸し出す、趣深い空間。明治の面影をそこかしこに残しながらも、不思議と店内には活気が満ちている。以前訪れた「上野藪そば」が老舗の“静けさ”を纏っていたとすれば、ここ「神田まつや」は人々の“にぎわい”こそが似合う、そんな雰囲気だ。職人たちの無駄のない動きは小気味よく、客席との距離も近いため、調理場から立ちのぼる湯気や出汁の香り、リズミカルな包丁の音までが伝わってくる。まるで蕎麦屋の日常が目の前で繰り広げられる“ライブステージ”のようだ。
多くの人が慣れ親しんだであろう「もりそば」を注文してみた。
竹製のすのこに美しく盛り付けられた蕎麦は、角が立ち、その佇まいから老舗の風格が漂う。まずは何もつけずに一口すすってみる。口の中に広がるのは、蕎麦本来の豊かな香り。喉越しも滑らかで、かおりの高さがうかがえる。
続いて、辛めのつゆにつけていただく。出汁の風味がしっかりと効いた、江戸前のキリッとしたつゆは、香り高い蕎麦の風味をさらに引き立てる。薬味のネギとわさびを添えれば、また違った味わいが楽しめる。
シンプルながらも、素材の良さと職人の技が光る「もりそば」。長年愛され続ける理由が、一口食べればわかるような、完成度の高い一杯だった。
上野の「藪そば」が“静謐な空間で、蕎麦そのものと深く対峙する時間を与えてくれる場所だとすれば、ここ「神田まつや」は、町の喧騒や人々の活気といった、その土地の熱気を肌で感じながら蕎麦を味わう、そんな印象だ。客層も実に幅広く、近隣のサラリーマン風の男性グループ、小さな子供を連れた家族、長年通い詰めているであろう年配のご夫婦など、誰もが気負うことなく、思い思いに蕎麦を楽しんでいる。どんな人にとっても「いつものお気に入りの店」でありうる、そんな懐の深い空気が漂っているのだ。
リズミカルに蕎麦をすする音、厨房から聞こえてくる活気のある声、そして店員さんの「へい、お待ちどうさま!」といった威勢のいいかけ声。そのどれもが、決して耳障りな雑音ではなく、この蕎麦屋が持つ独特の“味わい”や“風情”の一部として、心地よく空間に溶け込んでいるように感じられた。
まとめ
「神田まつや」は、蕎麦の味はもちろんのこと、そこに流れる時間や“町の空気ごと”味わい尽くすような、そんな体験ができる蕎麦屋だった。 明治から続く長い歴史を背負いながらも、決して肩肘張ることなく、ふらりと立ち寄りたくなるような親しみやすさと温かさに満ちている。それはまるで、一杯の蕎麦を通じて、“神田という町の文化”そのものに触れているような、豊かで満ち足りた時間だった。
粋で、気取らず、そして、心からうまい。 そんな言葉が自然と口をついて出てくる、これぞ東京の蕎麦屋と呼ぶにふさわしい一軒だ。
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