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映画『リチャード・ジュエル』が突きつける、見えない刃 ― “ルッキズム”という暴力

「見た目だけで、そこまで人を疑うものなのか――」 映画『リチャード・ジュエル』を観ている間、この言葉が何度も胸の内で繰り返された。1996年、アトランタオリンピック開催中に起きた爆破事件。多くの群衆の中から爆発物を発見し、大勢の命を救った警備員リチャード・ジュエルは、一夜にして英雄となる。しかし、その栄光は瞬く間に剥奪され、彼は一転して爆破テロの容疑者としてメディアと捜査機関から執拗な追求を受けることになる。

一体なぜ、彼は疑われたのだろうか。

映画は、彼を容疑者とする明確な物的証拠を提示しない。その代わりに、リチャード・ジュエルの「人物像」が、じわじわと世間によって作り上げられていく過程を映し出す。太っていること、母親と二人で暮らしていること、銃のコレクターであること、そして自身の仕事に過剰とも思える正義感を抱いていること――。彼の「見た目」や「振る舞い」の一つひとつが、まるでそれ自体が罪の証であるかのように、歪んで解釈されていく。

リチャード本人は、終始一貫して冷静かつ正直で、取り乱すそぶりも見せない。だが、まさにその落ち着き払った態度や、彼の外見、そしてどこか掴みどころのない性格が、「孤独」「オタク気質」「目立ちたがり屋」「何かを抑圧しているのでは」といったステレオタイプな憶測と結びつき、FBIやメディアの「疑い」を際限なく増幅させていくのだ。 このあまりにも理不尽な構図を目の当たりにし、私は何度かスクリーンから視線を逸らしたくなった。

それは、スクリーンの向こうで彼を追い詰めるその視線の中に、私自身の無意識の偏見が重なって見えたからかもしれない。 映画を観始めた当初、私の心のどこかにも「この人物、少し怪しいかもしれない」という小さな棘が刺さっていたことを、正直に告白しなければならない。彼のどこかぎこちない歩き方、朴訥とした話し方、母親に見せる甘えたような態度、そして全体を覆う陰のある雰囲気。それら一つひとつから無意識に「違和感」を拾い集め、それを根拠にして「この人には何か裏があるのではないか」という予断を抱いてしまっていたのだ。

これこそが、知らず知らずのうちに私たちを蝕む「ルッキズム」という名の偏見なのだ。外見や雰囲気といった表層的な情報だけで相手の人物像を勝手に決めつけ、無自覚のうちに誰かを傷つける側に回ってしまう。映画は、そんな人間の抗いがたい「弱さ」を、静かに、しかし鋭く観客に突きつけてくる。

さらに強烈な印象を残したのは、事件を報じるメディアの狂騒的な描写だ。記者はリチャードの自宅前に張り込み、彼の写真を執拗に撮り続ける。部屋から押収された銃や私物、個人的な書類といった情報が、まるで彼が危険人物であるかのようにセンセーショナルに報道される。リチャード本人の声や真実はメディアの喧騒にかき消され、彼の存在は切り取られた「映像」と歪められた「外見」の情報だけで一方的に語られていく。社会全体が、「彼のような人物」を「犯人」として消費し、断罪していくのだ。

映画が終わった後、私の胸には静かな怒りと、やり場のない深いため息だけが残った。これは、遠い国で起きた特殊な冤罪事件として片付けられるものではない。私たちの日常に目を向ければ、「あの人、なんとなく怖そう」「ちょっと話しかけにくいタイプだよね」といった言葉が、いかに無邪気に、そして頻繁に交わされていることか。外見や雰囲気を理由に、無意識のうちに人を避けたり、敬遠したりする行為は、今この瞬間も、どこかで繰り返されている。

『リチャード・ジュエル』は、単なる社会派サスペンス映画の枠を超えていた。これは、私たち一人ひとりが持つ「他者を見る視線」そのものと向き合い、それを省みるための、静かで力強い鏡のような作品だ。

「あなたは、見た目で人を判断していないか?」

映画から投げかけられたその重い問いに、私はしばらくの間、スクリーンから目を離すことができなかった。

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